数日が過ぎても、漆(うるし)と瑠璃(るり)の生活は一向に落ち着く気配を見せなかった。両親の逮捕という衝撃的な出来事から、二人は日常を取り戻そうと必死だったが、周囲の視線や噂話がそれを許してはくれなかった。
朝の通学路、漆は瑠璃と肩を並べて歩いていた。秋の冷たい風が二人の頬を撫で、木々の葉は赤や黄色に色づいている。だが、その美しい景色も、二人の心を晴れやかにはしなかった。
「今日も、頑張ろうね」
瑠璃が微笑みながら言った。その笑顔はいつもと変わらないように見えたが、漆には彼女の瞳の奥に隠された不安と疲れが見えていた。
「うん、姉ちゃんも無理しないでね」
漆は小さく答えた。瑠璃は優しく弟の頭を撫でた。
学校に着くと、二人はそれぞれの教室へと向かった。漆が教室のドアを開けると、瞬間、周囲の空気が変わったのを感じた。クラスメイトたちは一斉に視線を逸らし、ひそひそと囁き始める。
「灰原の弟だよ……」「やっぱり来たんだ。なんか怖いよね」
漆は深呼吸をし、何も聞こえなかったかのように席に着いた。しかし、背中に突き刺さる視線は無視できなかった。教科書を開いても、文字が頭に入ってこない。
授業が始まっても、教師は漆に目を合わせようとしなかった。質問があっても、手を挙げる気になれない。漆はただ、時間が過ぎるのを待つしかなかった。
一方、瑠璃も同じような状況に置かれていた。廊下を歩けば、友人たちは足早に通り過ぎていく。教室では、隣の席が空いたままだ。だが、彼女は毅然とした態度を崩さなかった。ノートを取り、授業に集中しようと努めていた。
昼休み、瑠璃は屋上に向かった。風が強く、髪が乱れる。遠くの景色を眺めながら、深く息を吐いた。
「はぁ……」
心の中に溜まったものを吐き出すように、彼女は小さく呟いた。その時、背後から声が聞こえた。
「瑠璃」
振り返ると、紅葉(もみじ)が立っていた。かつては親友だった彼女だが、両親の逮捕以来、距離ができてしまっていた。
「紅葉……」
瑠璃は驚きつつも、微笑みを浮かべた。紅葉は少し戸惑った表情で近づいてくる。
「久しぶりだね。元気、だった?」
「うん、まあね」
ぎこちない沈黙が二人の間に流れる。紅葉は何か言いたげに視線を彷徨わせていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「実は……話したいことがあるの」
「何?」
瑠璃が問いかけると、紅葉は深刻な表情で続けた。
「最近、学校でいろいろ噂が流れてて……瑠璃のこと、誤解してる人が多いんだ。でも、私はそんなことないって思ってて……」
「ありがとう、紅葉。でも、無理しなくていいよ」
瑠璃は優しく微笑んだ。その笑顔に、紅葉は胸を痛めた。
「ごめんね、力になれなくて」
「ううん、気にしないで。紅葉が話しかけてくれただけで嬉しいよ」
その時、チャイムが鳴り、二人は教室に戻ることにした。
放課後、漆は教室で荷物をまとめていた。他の生徒たちは既に帰り支度を済ませ、教室にはほとんど人が残っていない。窓の外を見ると、日が傾き始め、空がオレンジ色に染まっていた。
突然、外から騒がしい声が聞こえてきた。何事かと思い、窓に駆け寄ると、校門の近くで人だかりができているのが見えた。
「瑠璃?」
嫌な予感が胸をよぎる。漆は急いで教室を飛び出し、校門へと向かった。
そこには、瑠璃と紅葉が立っていた。しかし、二人の前には見知らぬ男が立ちはだかっている。男はぼろぼろの服を着ており、手には光る刃物が握られていた。
「近づくな!あんたたちのせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ!」
男は叫びながら、ナイフを振りかざす。周囲の生徒たちは恐怖で固まり、誰も動けない。
「紅葉、逃げて!」
瑠璃は紅葉を背後にかばうように立ちふさがった。紅葉は震えながらも、その場から動けずにいた。
「お前ら、灰原の娘だな!親の罪は子供にもあるんだ!」
男の目は狂気に満ちていた。漆は必死に駆け寄りながら叫んだ。
「やめろ!」
しかし、その瞬間、男はナイフを瑠璃に向けて突き出した。瑠璃は迷わず紅葉を押しのけ、自分が刃を受け止めた。
「瑠璃!」
鋭い痛みが彼女の体を貫く。制服が赤く染まり、彼女はゆっくりと膝をついた。
漆が到着した時、瑠璃は地面に倒れ込んでいた。彼は姉の体を抱き起こし、震える声で呼びかけた。
「しっかりして、瑠璃!目を開けて!」
瑠璃は薄く目を開け、かすかな微笑みを浮かべた。
「漆……紅葉は……無事?」
「姉ちゃん、今はそんなことより……!」
涙が頬を伝う。瑠璃は弱々しい声で続けた。
「守れて……よかった……」
その言葉を最後に、彼女の意識は遠のいていった。漆は必死に名前を呼び続けたが、瑠璃は応えなかった。
救急車のサイレンが近づく中、漆は瑠璃の手をしっかりと握り続けた。
「お願いだ、死なないでくれ……姉ちゃん……」
彼の声は震え、涙が止まらなかった。姉を守れなかった自分の無力さが、胸を締め付ける。